101年目からの松平頼則? 曲目解説

松平頼則音楽史の中で占める位置は、溝口の映画史における位置と重なるように思う。いうまでもなく、溝口とは、海外で黒澤・小津以上の評価を得、トリュフォーゴダールロメールタルコフスキーといった錚々たる作家たちが賞賛を惜しまない、偉大な映画監督であるところの溝口健二(1898-1956)である。

 今でこそ、日本映画のモダニズムを代表していたかのように語られる溝口であるが、彼が拘った長廻しといった技法、それから扱う題材ゆえだろう、海外では早い時期から熱狂的な支持者を生み出したのに反し、国内では時代遅れの映画監督であるかのような不当な評価を受けていた時期がある。筆者はそこに、まさに松平頼則との共通点をみる。ブーレーズメシアンのような作曲家からの賞賛を受けながらも、いまなお、松平のモダニストとしての業績は正確に評価されているとは言いがたい。1950年代以降、12音技法から総音列技法へと、猛烈な勢いで西欧前衛を追いかけ、独自の方法で吸収した後のことはまだしも、1940年代までの新古典期的な作品にもまた、モダニスト松平の足跡が刻まれていることに、はたしてどれだけの方が気付かれているのだろうか?

 系図を辿れば徳川家康にも行き着く旧石岡藩主松平子爵家の嫡子が、日本伝来の雅楽を素材とした典雅な作品を作曲している。安易に出来上がってしまうだろうこうしたイメージから、20世紀屈指のモダニストの相貌を理解するのは確かに難しい。だが思い出してみてもらいたい。音楽と情念が分かち難く結びついてしまっているこの国の中で、音を情念の呪縛から解き放ち、音の動きの愉悦としての音楽を追い求めるために、どれだけ激烈な抵抗を松平が行ってきたことか。こうした新古典主義的な革命を、モダニストの仕事と呼ぶことに何を躊躇する必要があるだろう?新古典期においても、松平は音楽の前衛であることに変わりは無かったのだ。

 ゆえに今日、溝口健二の「残菊物語」が日本を代表するモダニストの作品と評価されているならば、松平頼則の「セロ(チェロ)・ソナタ」もまた、同様に評価されなくてはならないだろう(それゆえに、このコンサートシリーズは今後も続いて行く)。そして、この作品に続いて生まれた、典雅で、だがその実相当奇妙なギミックに溢れた作品群を聴くとき、その新古典主義モダニスト松平頼則の姿を再定義することが出来るはずだ。そしてそれは、40代も後半に入った作曲家が、12音技法の習得とともに、かくも過激で見事な変貌を遂げることが出来た理由ともなる。松平の変貌は決して突然変異ではなかった。この変貌は、彼がはじめて雅楽を露わに素材として用いた「チェロ・ソナタ」の頃から、人知れず連続していたのだった。

さて、1907年5月5日、松平頼孝子爵の一人息子として東京に生まれた松平頼則は、1925年秋にフランスのピアニスト:ジル・マルシェックスによる連続演奏会を聴いたことにより音楽を志した。この音楽史を俯瞰していくかのような演奏会にて、彼は音楽作品を音楽史のダイナミズムの中で捉えることに開眼し、以後、突端の作曲家としての矜持を持ち続け活動して行く(詳しくは、第一回の曲目解説をご覧頂きたい)。

1940年代とは、松平がラヴェルプーランクに代表されるフランス新古典主義に傾倒し、その展開の行く先に音楽史の突端を見出そうとしていた時期にあたる。今回、演奏会前半から後半に1曲目で演奏される作品は、何れも新作曲派協会の作品展にて初演されたもの。戦後、1946年に発足したこの会は、1952年に最後の作品展を行うまで、音楽学校出身者はただの一人も加入することのない、非アカデミズム志向の、そして幾らか民族的な、在野の作曲家の集まりであった。グループの代表的な作曲家としては、早坂文雄清瀬保二、そして松平頼則が挙げられる。後に、武満徹や鈴木博義もここに加わり、武満が「二つのレント」を発表し、批評家:山根銀二より「音楽以前」との評を書かれたのは、まさにこの会の第7回作品展でのことであった。

松平頼則は、全9回の作品展のうち、第1回から第6回、第8回で、計7曲の作品を発表し、新古典主義の先にあるモダニズムの探求に明け暮れた。昨年、本シリーズ第1回にて取り上げた「ピアノ・トリオ」(1948)は、この第3回作品展で演奏された作品。1940年代後半から、50年代初めに書かれた松平の室内楽作品の多くは、この会にて発表されたものということになる。

「セロ(チェロ)・ソナタ」は、1942年に作曲。1947年、大規模な改作を施された上で、12月12日の新作曲派協会の第1回作品展にて、鈴木聰のチェロと谷康子のピアノで初演された。元々は、日本音楽文化協会(戦時中の国内の音楽演奏を統制した団体)の公募に入選。1942年の3月16日の協会の第一回室内楽演奏会において初演されたもので、松平が、そのキャリアにおいて初めて、雅楽的素材を露わに使用した(第2楽章)記念碑的な作品でもある。第1楽章と第3楽章は、1947年に抜本的に書き直され(第2楽章にも部分的な改作の手は入っている)、二調の伸びやかで清冽な響きの中に、松平が偏愛した増4度の響きと、音楽の進行を曖昧にし、瞬間毎に凍らせていくかのような平進行とが、少しずつ忍び込まされている。本日使用の楽譜は、上野学園大学所蔵の手稿譜より起こされたものである。

「フルート・バスーン・ピアノのためのトリオ」は、1950年に作曲され、同年6月7日に開催された新作曲派協会第6回作品展で、高橋安治、三田平八郎、田中立江によって初演された。田中立江は、新古典期の松平が最も篤い信頼を寄せていたピアニストで、作曲家:田中カレンの叔母に当たる人物である。2本の木管楽器とピアノという編成においてプーランク(「オーボエ、バソン、ピアノのためのトリオ」)、「プレリュード」「フーガ」「アリア」トッカータ」による組曲という体裁においてラヴェル(「クープランの墓」)という、松平が若き日より規範としてきたフランス新古典主義2つの精華へのオマージュである。ピアノが奏する深みのある和音の中で、2本の管楽器は互いに小さな齟齬を孕みながらも寄添うように動き、雅楽的なヘテロフォニーを志向して行く。第3楽章はまさに雅楽の松平的和声付け。なお、この楽譜もまた、上野学園大学所蔵の手稿譜より起こされたものである。

さて、元来ピアニストで、1934年までに4回のリサイタルを開いたこともあった松平にとって、最も親しみがあり、かつ精通していた楽器といえばピアノであった(そのことは、ここまでで演奏された2曲の時代を超越したピアノ書法をみても明らかだろう)。それ故に、1949年の段階で作品表に載っている室内楽曲で、ピアノを使用しないものは「フリュートクラリネットのためのソナチネ」(1940)1曲を数えるのみ。しかし、上野学園大学には2601年(皇紀、西暦でいうところの1941年)の日付とともに、南部民謡の採譜者:武田忠一郎への献辞が記された弦楽4重奏曲の手稿譜が現存する。「音楽之友」1942年4月号清瀬保二署名記事において、近々演奏予定の作品として「チェロ・ソナタ」とともに挙げられている「弦楽4重奏曲」が、上記の作品であると推定されるが、慣れ親しんだピアノから離れて弦楽4重奏を発表するのは時期尚早だと判断したのだろう。この作品はついに発表されることがなかった。

「弦楽4重奏曲第1番」は、1949年に作曲。同年4月26日の新作曲派協会第4回発表会にて、岩切博、板橋順、北爪規世、三鬼日雄によって初演された。余談であるが、ヴィオラの北爪規世はクラリネット奏者北爪利世の弟で、つまり、作曲家の北爪やよひ、北爪道夫姉弟の叔父ということになる。さて、上記の習作の作曲を踏まえて、戦後、弦楽4重奏という編成に再び取り組むに当たって、松平が手本としたのがラヴェルの弦楽4重奏曲である。戦前、戦中と、海外から輸入される音楽作品を筆写することで最新の音楽語法を吸収していた松平らしく、この作品の第1楽章で、松平はラヴェルの弦楽4重奏曲という鋳型の中に自分の表現を流し込もうとした。楽曲の構成は極めてラヴェルに似ているが、松平が好んだ増4度の音程がここでも頻出し、作品に独自の陰影をもたらしている。増4度の多用は、松平の複調/複旋法志向によるものといえるが、続く第2楽章のスケルツォでは、4つのパートが各々異なる調性で書かれ、重ね合わせられるという松平好みの実験が試みられている。第3楽章は、越天楽を主題にしたアリア。第4楽章はプロコフィエフのように絶え間なく疾走するフィナーレ。なお、本日使用の楽譜については、作曲家の小内將人氏より提供を受けたものである。

さて、本公演では、作品は1950年代、60年代を飛ばして一気に1980年代へと向かう。1951年以降、雅楽と12音技法に代表される西欧前衛の音楽語法とを結びつけ、独自の世界を構築した松平であるが、情念とは無縁に漂う音世界の創造へと向かったという点については、新古典期志向の延長線上に理解できよう。

1987年に作曲された2台のピアノのための「6つの調子」から、井上郷子のために音を選び出して1991年に再作曲された作品という点で、この「3つの律旋法によるピアノのための即興曲」は昨年演奏の「呂旋法によるピアノのための3つの調子」と双子の関係にある。ゆえに、今回の公演パンフレットでは、「律旋法によるピアノのための3つの調子」と告知してしまったが、松平はこの双子ともいえる作品に「呂旋法」の3曲とは異なる名前を与えていたのだという。というより、同一素材の改訂、書き足し、再作曲を繰り返す松平ゆえに、もう題名のことなどどうでも良くなっていたのかもしれない。この作品は、1991年の井上郷子最初のリサイタル「SATOKO PLAYS JAPAN」にて、1991年2月6日に初演された。基本的には音列技法によって書かれているものの、特定の音を引き伸ばすことによって薄い旋法性を作品へと与えている。一音の中に潜む様々な音の要素が際立たされる、松平が到達した音世界の中でも、極めて禁欲的で厳しいもののうちの一つ。

雅楽の主題による10楽器のためのラプソディ」は、エリザベス・スプレイグ・クーリッジ財団の委嘱によって1982年に作曲された。スコア表紙の自筆サインによると、完成は11月。エリザベス・クーリッジ(1864-1953)とは、アメリカの有名なパトロンで同時代の室内楽作品作曲への援助で知られる。バルトーク「弦楽4重奏曲第5番」、シェーンベルク「弦楽4重奏曲第3番」「同第4番」、ヴェーベルン「弦楽4重奏曲」、そしてラヴェルの「マダガスカル島民の歌」といった錚々たる楽曲が、彼女の援助によって作曲された(彼女の遺志を継いだ財団も、プーランクに「フルート・ソナタ」を書かせたという点で音楽史に銘記されてよい)。

 作品は、雅楽「輪鼓褌脱」を素材とした自由な音列技法による。序奏と12の変奏曲、そして終曲からなり、全曲の大部分がピアノかそれ以下の音量にて演奏される。極めて厳格な記譜により、ほとんど非常識とすらいえる跳躍音形があらゆる楽器に出現するが、奇数連符を多用した独自の構成が、これらを漂うような音風景のうちに纏めていく。厳格なシステムが、未分化なまま漂うような柔構造の音風景を生み出していく、新古典期から一貫した松平の志向がある意味極限へと達した瞬間の記録。その音風景は、あたかもヴェーベルンとフェルドマンの美学が、雅楽とともに鼎立しているかのような、極めて個性的なものとなっている。

 初演は1983年10月30日、アメリカ議会図書館(日本の国会図書館はここをモデルに開設された)、クーリッジ・オードトリウム(ワシントンDC)。ちなみに、初演時の録音と、スコア・パート譜一式はこの議会図書館に収められ、ワシントンへ行けば閲覧することが出来る。翌秋のISCMの音楽祭(カナダ)にて入賞し、再演。日本初演は1985年3月16日、日本現代音楽協会のコンサートにおけるムジカ・プラクティカによるもの。使用楽譜は、自筆譜のコピー(スコア)と、初演時に作られ松平の手元に残されたパート譜のコピー(日本近代音楽館、蔵)である。